■ こまばアゴラ劇場提携公演・青☆組vol.5 ■
第10回・日本劇作家協会新人戯曲賞入賞作品

時計屋の恋

作・演出 吉田小夏
2006年1月25日(水)〜 1月29日(日)
こまばアゴラ劇場
  
処女作「うちのだりあの咲いた日に」に続き、2度目の新人戯曲賞に入賞した
吉田小夏、待望の新作を「青☆組」初の劇場提携企画として上演
WSで厳選された出演者達と、息の合った常連俳優+スタッフでアゴラ劇場に初進出!

 2006年1月25日より[こまばアゴラ劇場]で公演の『時計屋の恋』に出演します。
作・演出の吉田小夏氏は青年団の同期で、彼女の作品『月とスプーン』にも父親役で出ました。(この作品は「若手演出家コンクール」で優秀賞を受賞)
 「藤川さんともう一度やりたい」という彼女の呼びかけに、私は一も二もなくOKしました。老若男女、誰が観ても十分に楽しめる彼女の劇世界に注目しているからです。

 この作品は、吉田氏が私に当てて主人公の時計屋を書いてくれました。作者の期待に応えるのはもちろんですが、何よりも観てくださる皆様に喜んでいただけるのが一番です。
 ほとんど出ずっぱりの役ですので気が抜けません。私にとっては久々の舞台です。稽古の一回一回に集中し、素晴らしい舞台にする所存です。
2006年1月 藤川修二

ものがたリ
季節は、九月のお彼岸の頃。舞台は、東京からほどよく離れた小さな町「小良穂町(おらほ・ちょう)」。お寺沿いの彼岸花しか見るところの無いこの町。唯一の大通りである小良穂商店街では、ここのところますます訪れる人が減っているらしい。そのためか老舗の開店が続いて、町の彩りも閑散としている。物語は、そんな商店街から徒歩十五分…代々続いた時計屋「時計のスギモト」を潰してしまった、杉本幸雄の家で進んでゆく。畳の居間に、自分なりのもてなしの準備をそろえ、お彼岸の来客を待つ幸雄。もうひとりの住人である息子の妻の夏美が、それを見守っている。台所には、オハギ作りに精を出す町の女性達。やがて、幸雄の弟夫婦がお墓まいりにおとずれて、いつもより賑やかな体日が始まったかのように見えたが…。
登場人物たちは、遠くの何かを、誰かを、その時を、心の隅で待つている。
壊れた時計までもが、まるで何かを待ちわびるように、調子はずれな時を打つ。
お墓まいりで誰かに手をあわせる時のように、もはや心が求めても、けして手の届かない遠さが2人の聞に横たわる瞬間がある。届かない想いを抱えながらも、明るく生活に向かう人々の逞しさは、むしろ切なくも見えて……これは「待ち人来たらず」のくじを引いた人々の一日を、そっとみつめる物語である。

作・演出ノート
人間は生まれながらにして、ゆっくりと死にむかっている。それはひとつの根源的な絶望だ。
それに対して「生活をすること、それ自体が希望をもつ事ではないか」という発想をベースに、私の劇世界では、日々の営みに潜む小さな葛藤や、誰かに起こるかもしれない等身大の事件に向き合う人々が丁寧に描かれる。
それが作者である自分にとって、唯一ゆるぎなく、かけがえのない世界のありさまなのである。
今回の作品では特に、生きる事の暗喩として食べることのエピソードが多用されている。
生活の中の人聞関係を繊密に描く事で、観客に一種の観察の感覚を与え、共感の楽しみと、他人を覗き見するような刺激を生み出してゆく。
そして、その日常が壊れる沸点を鮮やかに播くことで、生活という奇跡に光をあて、劇場でおのおのの観客が自身の日々にゆっくり想いをはせられるような、そんな劇空闘を目指している。
その沸点こそ、生活が人生を垣間見せ、個人が社会の姿を炙り出す、劇的瞬闘だと考える。
このため演出の手法も、アバンギャルドで前衛的な演舞体や、過剰なデフォルメは使わず、距離、視線、呼吸、セリフの音程の細かさなど、人間の行為の緻密な組み立てにより観客の想像を刺激するシーン作りにこだわっている。
特に、人と人との出会いと別れや、言葉に出来ない繊細な距離感を、糸を紡ぐように丁寧に浮かび上がらせる事に力を注ぎ、人聞関係に潜む普遍的な孤独を、演劇でしか表現できない、淡々と鮮やかな空気感でたちのぼさせてゆくことを指針としている。
「うちのだりあの咲いた日に」2002年
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